「あっ、雪だ……」
九段の街道を歩く俺の目の前に、雪が降ってきた。
季節は1月とはいえ、帝都でこの時期雪が見られるのは稀だ。
俺は興味本位に手を差し伸べた。ゆっくりと降り積もる雪は俺の掌に舞い降り、そして消えた。
「どうしたの祐一。いきなり立ち止まったりして」
「いや、雪が降ってきたからつい」
「あら、いつのまにか降り出したのね。でもあっちに行けばいつでも見られるんだから、立ち止まって見る程のものでもないわよ」
「確かに……」
母さんの言う通り、これから嫌でも毎日のように見せつけられるのだ。今更立ち止まる程のものでもないだろう。
でもなんだろう。この地に降る雪は何か特別な意味があるような気がしてならない。
(まったく、母さんさえ認めてくれればこっちに一人で住んだのに……)
もう決まったこととはいえ、俺は愚痴を語らずにはいられなかった。この度父さんの都合で父さんの生まれ故郷である岩手県の宮古市という所に引っ越すこととなった。そんな何もない田舎には行きたくないと俺は自分自身の自主性と独立心を高める為、帝都での一人暮らしを切望したが、母さんの猛反対で一蹴された。
ただ、ある程度の譲歩は叶った。当初は家族で越す予定だったのだが、俺だけ母の実家のある岩手内陸部のある街に住まうことになった。そこは沿岸の街よりは都会だし、何より本人の自主性と独立心を高めるという意見には母さんも賛成だった。だから一度両親の元から離れるのも悪くはないという最終見解だった。
といっても帝都に比べれば田舎には変わりないから、五十歩百歩という所だ。
「おっ、大鳥居が見えて来た」
そんなことを考えている内に、俺達の足は九段の靖國神社に辿り着いていた。
皇居の近隣に建つ靖國神社。戦没慰霊の意味を兼ねて明治時代に建立された神社で、戦前は戦争で散っていた者達を英霊としてこの神社に奉っていた。戦後米国によって日本軍が解体され、憲法によって軍のそのものを否定した後、この神社に奉られた者はいない。
俺の母方の祖父は海軍軍人で、運良くあの大東亜戦争を生き延びたものの多くの同僚を失い、生前は何かと靖國神社に足を運んでいた。かくいう俺も幼い時から亡き祖父と母さんに連れられ、よくこの神社を訪れていた。
大鳥居を潜り抜け、長い長い参道を歩くと、大村益次郎の銅像が見えてくる。その先をまた暫く歩くと、今度は大きな菊の紋章が飾られた門が見えてきた。この先に目指す靖國神社の拝殿がある。拝殿の横には警備員が立っており、ここの厳重さが伺える。
「あら、草加さん」
拝殿に辿り着くと、俺達より先に参拝をしている車椅子の老人の姿があった。母さんはその老人に「草加さん」と呼び掛けた。
「お久し振りです、雪子さん。息子さんが今日岩手に向かうと聞いたので」
「あら、ご都合が付けばで宜しいと申しましたのに、わざわざご苦労様です」
「母さん、知り合い?」
「ええ。おじいちゃんの海軍時代の上官だった人よ。草加さんも岩手出身で、上下の関係を超えて仲が良かったのよ」
「おじい様は勇猛果敢な海軍軍人でしたよ。私より早く亡くなられて残念な限りです」
母方の祖父は私が十歳の時に亡くなった。それにしても、仲が良かったなら葬式に姿を見せてもよいものの、祖父の葬式の時この草加翁の姿はなかった。まあ、車椅子のようだし、身体的な理由で葬式に来れなかったなかっただけかもしれない。
「さ、祐一、私達も拝みましょう」
「はい」
拝殿の奥の本殿に眠る二百幾万の英霊達に対し、俺は神道の形式に従い、二度礼をして二度手を叩きながら敬意の念を込め拝んだ。
「祐一。お母さんは草加さんと少し話し込むから。一人で行けるでしょ?」
「もう子供じゃないんだから行けるに決まってるだろ。では草加さん、ご縁がありましたならばまた何処かでお会い致しましょう」
俺は草加さんに深い礼をし、靖國神社を後にした。
「元気な子供ですね。あの事はもうお話になられたのですか? 嘗てこの地で巻き起こった悲劇、そして貴方達源氏の血統に託された遥か遠き日の約束を」
「いえ。まだあの子に話す時期ではないので。あの子にはあの子自身の果たさなければならない約束があるのですから……」
|
第壱話「北東北の街へ」
東北新幹線に揺られ約二時間、仙台駅を通り過ぎここからは各駅停車になる。後1時間位で目的地に着くはずだ。
(雪か……)
くりこま高原を過ぎた辺りからであろうか、外の景色が徐々に雪景色に変化して来た。
(7年振りだな、こんなに本格的な雪景色を見るのは……)
靖國神社に参拝する前秋葉原で買った同人誌を読みながら、俺は窓の外に広がる雪景色に目を向けた。
(不思議なものだ、本能的には美しいと感じているのに、理性がそう感じるのを許さない。昔はこんなことなかったのにな……)
美しい雪、幻想的な雪。街という街が雪に覆い隠された空間、それは帝都の比ではない。そこはまさに雪の異世界という感じだ。
幼少の頃の記憶を辿れば、この先の一ノ関駅を経由した後幾重ものトンネルが重なり、それをくぐり抜けた先に目的の駅がある筈だ。
(そろそろ目的地に着くな。下車の準備をしておくか……)
程なくして目的地の駅に着いた。重い荷物を背負い、俺は雪が舞い降りる駅の外へ出た。
「私は帰って来た!」
開口一番、俺はそう叫んだ。何処かへ帰って来た時にこの台詞を叫ばなければガンダマーの名が廃る。
「おっ、あれかな」
俺を迎えに来る従姉妹の名雪の話だと、西口に見えるジャンボ鉄瓶で待ち合わせということだった。西口に出て北の方に目を向けると、その名の通りのジャンボ鉄瓶が見えて来た。
「それにしても寒いな……」
外に出た途端、凍て付く吹雪が俺の肌を襲った。
「まさか北国の冬がここまで寒いとはな」
北国の冬を想定して帝都に居た時より厚着で訪れはしたが、冷たい北風を完全に防ぐまでには至らなかった。
「ふぅ、こいつは一大事……」
と、某魔術師提督の口調で呟いた。そんな台詞が出てくるくらいだから、まだ若干の余裕がある。何せ予め待ち合わせの時刻を決めているのだから、予想外の寒さに焦る必要はない。そう思い、俺は気軽に待ち続けることにした。
|
「雪の〜進軍〜♪氷をふんで〜♪ど〜れが河やら道さえ知れず〜♪馬は斃れる♪捨ててもおけず♪此〜処は何〜処ぞ皆敵の国♪」
あれから2時間は経つだろうか。軍歌「雪の進軍」を口ずさみつつ名雪を待っていたが、一向に姿を見せる気配がない。
「いかん、これでは第五連隊の二の舞だ……」
昔、「八甲田山」という映画を見て帝國陸軍の事を散々罵っていたが、これでは到底人のことは言えないだろう。
「ゆういち……ゆういち……」
寒さで気が動転して来たのか、俺の名を呼ぶ声が聞こえる。八甲田山で命を落とした英霊達が俺を迎えに来たのだろうか。
「ゆういち……祐一ったら……」
徐々に大きくなる英霊の声。俺の命の火種は今正に消えようとしていた……。
……にしても、英霊の声にしては随分と可愛い声である。もしかしてこの声は英霊の声ではなく……、
「ようやく来たか……。危うく違う世界に旅立つ所だったぞ……」
「あっ、良かった、わたしの声が聞こえたんだね。ごめんね祐一、だいぶ待ったでしょ?」
声の正体は英霊などではなく、従姉妹の名雪だった。
「俺が誰だか分かるのか?」
「うんっ、分かるよ、祐一でしょ」
「7年振りだっていうのによく俺だって分かったな」
「分かるよ、どんなに年を重ねて雰囲気が変わったとしても……」
俺自身は会うのが7年振りだという理由で送られてきた写真で、成長した名雪の容姿は確認済みであった。なので、目の前に立っているのが名雪だと即座に確認出来た。しかし、こちらから俺の成長した姿を写した写真は送らなかった。それなのによく俺本人だと分かったものだ。
「はいこれ、遅れたお詫び」
そう言って名雪が取り出したのは缶コーヒーだった。
「7年振りの再会だっていうのに、遅れた詫びが缶コーヒー一本とはな。随分と貧相な詫びだな……」
「ごめんね、他に用意するものがなくて……」
「貧弱、貧弱ゥゥゥ〜〜! この俺をコーヒー如きで鎮められると思ったかァーー!! こうなったら、お前の身体で払ってもらう!」
などと叫ぼうと思ったが、三流18禁同人誌並の展開と言えるくらい馬鹿馬鹿しい展開になり兼ねないので、沈黙を続けることにした。
「祐一、わたしの名前、覚えてる?」
「アルテイシア」
「違うよ〜」
無論名前は覚えているのだが、待ち合わせの時刻に遅れた報復として、逢えて見当違いな名前を語った。
「マチルダさ〜〜ん! フォォォォォウ! ハマーン様バンザ〜〜イ!! プルたんハァハァ……」
「適当に色々答えないでよ〜。それに何を言っているか全然理解できないよ〜」
このネタが理解出来ないということは、少なくとも名雪はガンダマーではないだろう。
「さてと、冗談はこのくらいにしておいて、そろそろお前の家に案内してくれ……名雪!」
「あっ……」
わたしの名前、ちゃんと覚えてくれてたんだね……と言わんばかりの笑顔で名雪が微笑み出した。忘れる筈がない、この雪のように美しく、雪のような温かみを持った少女の名を……。
「うんっ!!」
立ち上がり雪を払え終えた俺を名雪が手招いた。
ヒュオオオ〜〜
その瞬間、冷たい風が俺の身体を遮った。
「あ……ゆ……?」
俺は自分が口から出した言葉の意味が理解出来なかった。あゆ。この言葉が体何を指すのか喉元まで出掛かっているのに、その答えが分からない。
「どうしたの、祐一?」
「いや……何でもない……」
寒さが極まっていたので、焼立ての鮎の塩焼きでも食べたいとでも本能的に思ったのだろう。そんな投げやりな答えで無理矢理自分を納得させようとした。
「あっ……」
ふと駅舎の方へ目を向ける。するとその後方にある山が見えて来た。
(何だ!? この感じは……)
その瞬間、俺の心の中をある心象が遮った。それは悲哀や悲愴と呼ばれる感情。何故あの山を見た瞬間そのような感情を抱いたのか、自分自身の事ながら説明が付かない。
ただ、あゆという言葉、そしてあの山。この接点すらない2つのキーワードが、俺の心にある溶かされた記憶を再び形創る……そんな気がしてならない……。
|
「いらっしゃい祐一さん。こうしてお会いになるのは7年振りですわね」
「こちらこそお久し振りです、秋子さん。これから暫くの間お世話になるでしょうが、どうか宜しくお願い致します」
名雪の案内で居候先である水瀬家に到着し、俺は玄関先で出迎えてくれた名雪の母である秋子さんに挨拶をした。
「あらあら、そんなに他人行儀する必要はないわよ。お義姉さんからも家族同然のように家事なり掃除なりビシバシやらせるようにと言われていますし」
「はは……相変わらず母さんは厳しいな……」
秋子さんは母さんの兄の配偶者で、俺の母さんより十歳以上年下だ。何でも母さんの兄と結婚したのは高校を卒業した直後だったという話だ。
「では、お言葉に甘えて。申し訳ありませんがお風呂に入らせてもらえないでしょうか? どうも長い時間吹雪に打たれて体全体が冷え切ってしまいまして……」
「了承。今から汲みますから、それまでは火燵で体を温めていてくださいね」
駄目元で風呂に入りたいと言ったつもりが、あっさりと了承された。思えば秋子さんは昔から色々と心の広い人だった気がする。
その後俺はこれから住まわせてもらう部屋に荷物を置き、秋子さんに言われた通り火燵で体を温めることにした。
「あったかい、あったかい。火燵というのもなかなかいいものだな。帝都に居た時はエアコン暮らしだったからな」
「ねえ祐一、帝都って何?」
暫くすると名雪も火燵に入ってきて、何気なく俺に話し掛けてきた。
「そんな事も知らないのか? 帝都っていうのは東京の通称だぞ」
「それ、いつの時代の話だよ……。今時東京のことを『帝都』って呼ぶ人なんか誰もいないと思うよ……」
「そうか? サクラファンは普通に呼ぶと思うぞ」
まあ、サクラファンに限らず、熱狂的な右翼も呼びそうだけど。
「う〜、『サクラ』って言われても何を指しているか分からないよ〜」
「分からないのか!? セガサターンの大人気ゲーム、『サクラ大戦』だぞ」
「あっ、それなら知ってるよ〜」
「持ってるのか?」
「ううん。たっちゃんがこの間それの2買ったって言ってたんだよ」
「たっちゃん? 誰だそれ?」
聞き慣れない名前に、俺は思わず首を傾げた。
「お隣に住んでいる同い年の男の子だよ。祐一も何度か遊んだことがあるよ」
「お隣に住んでいる同い年の男の子か……」
そういえば7年前来た時、こちらの男友達と遊んだ気がする。
「あれっ? そういえばもう一人くらい……」
男だか女だかも覚えていないが、もう一人くらい一緒に遊んでいた子がいた気がする。
「祐一さん、お風呂くみ終わりましたよ」
そうこうしている内に、秋子さんの声が聞こえた。風呂が汲み終わったとのことなので、俺は名雪に案内されて水瀬家の風呂場へと向かった。
「バスタオルはここに置いておきましたから」
「色々とどうもありがとうございます」
秋子さんにペコリとお辞儀をして、俺は風呂場に入った。
「ふう、極楽、極楽……」
帝都からこの地への長い旅の疲れ、名雪に待たされ過ぎて冷え切ってしまった身体の全てを洗い流すかのように、俺はゆったりとした気分で風呂に浸かった。
(何故なんだろうな……何故7年もここに来なかったんだろうな……)
温かい家庭、温かい家族。7年振りに来たというのに名雪と秋子さんからにはそんな印象を受ける。それだけここは温もりを感じることが出来る場所なのだろう。それなのに何故俺は7年もここに来たくなかったのか?
分からない……。ただ推察出来るのは、その温かみを消すくらい冷たく哀しい出来事があったのではないかというくらいだ。
|
「あっ、祐一、もうお夕飯の準備ができてるよ」
風呂からあがると名雪に声を掛けられ、俺は水瀬家の台所に案内された。
「祐一さん、お風呂はどうでしたか?」
台所に向かうと、テーブルの上には夕食が並べられており、既に席に座っていた秋子さんが話し掛けてきた。
「ええ、気持ち良かったです。お陰で旅の疲れも取れましたし、冷え切った体も温まりました」
「そう、それは良かったですわね。さ、今日の夕食は祐一さんの居候記念としまして腕に寄りをかけて作りましたから、遠慮なく戴いてくださいね」
「ええ。では遠慮なく戴きます」
台所の椅子に腰掛け、俺は目の前に広がっている盛大な夕食を口にし始めた。
「祐一さん、お味はいかがですか?」
「ええ。とてつもなく美味しいです。あまりの美味しさに口から光線を出して大阪城を破壊するくらいに……」
「祐一、例えがよく分からないよ……」
横で名雪がそう呟いた。まあ、常人に味っ子ネタは分からないか。
「? 秋子さんどうかしたんですか?」
夕食を食べている最中、秋子さんが何処か寂しげな顔をした。その顔が気になった俺は、軽く声を掛けてみた。
「いえ……明日はもう1月7日だと思いまして……」
「1月7日……?」
そう言われて何か特別な日だったかと考えてみる。そして一応思いついたことは思いついた。
「1月7日か……そういえば昭和天皇陛下が御逝去為さられた日だったな……」
そう、1月7日は10年前、激動の時代”昭和”が終わった日だ。もっとも、この日を意識するか否かは個人によって異なるだろうし、秋子さんがそれを意識しているという保証もない。
ただ、自分自身1月7日は自分にとって何物にも変えられないくらい、昭和が終わった日というのより意味のある重大な日だった気がする。
「抜かったな。どうせなら7日に靖國参拝してからこっちに来れば良かったな……」
もし1月7日に参拝していたのなら、いつも以上に意味のある参拝になっただろう。新しい場所に慣れる為早めに越した方が良いと母さんに言われて今日来たのだが、あと1、2日遅らせることは充分可能だった。
「ねえ祐一、『靖國』って何……?」
「そんな事も知らんのかぁ〜。貴様ぁ、それでも誇り高き帝國海軍軍人の孫かっ!? そんな名雪、修正してやる〜〜!!」
ぽかっ!
俺は名雪の頭を軽く殴った。まったく、海軍軍人の孫が靖國神社を知らないなんて、非国民的行為だぞ。
「う〜、知らなかっただけで殴るなんて、いくら祐一でもひどいよ〜」
「いいか、靖國神社というのは、日本の為に戦争で亡くなった方々達を神として奉っている神社なんだ」
「へぇ〜そうだんだ〜。そんな神社があるなんて全然知らなかったよ」
「全く……これだから最近の若い者は……」
「う〜、祐一だって最近の若い者だよ〜」
「ふふっ」
そんな時、秋子さんが軽い微笑をした。
「秋子さん?」
「いえ、大したことではありません。祐一さん、名雪は知らないんじゃなくて、忘れているだけですよ」
「お母さん、どういうこと?」
「覚えていないかしら、名雪が小さかった頃家族で東京に行った時のこと。その時行った皇居の近くにある神社、そこが靖國神社よ」
「あっ……」
名雪の反応の様子だと、どうやら思い出したようだ。
「うん、覚えてるよ……。あの神社が靖國神社っていうんだ……」
「小さい頃行った所だから名前までは覚えていなかったようだけど、行ったことは覚えてるのね」
「うん。だって忘れるはずないよ。わたしにとってもお母さんにとっても大切な思い出だもの……」
|
「ふう、食った、食った。後は歯を磨いて寝るだけだな」
夕食を取り終えた俺は、名雪と共に台所を後にした。
「えっ、祐一もう寝るの?」
「ああ、こっちに来たばかりだし、風呂に入ったからといって疲れが完全に取れたわけじゃないからな。という訳でだ、名雪、悪いが洗面所に案内してくれないか?」
「分かったよ」
名雪に案内され、俺は水瀬家の洗面所へと向かった。
「ここだよ祐一」
「サンキュー」
洗面所に案内され、俺は早速歯磨きを始めた。
「とほろでぇなふき……」
「喋るなら歯を磨いてからの方がいいと思うよ……」
「ほぉうなは」
それもそうだと思い、俺は急いで歯を磨くことにした。
「ところで名雪、明日って俺に関する事で何か重要な事があったけ? どうも大切な何かを忘れている気がするんだが……」
「そんなこと訊かれても、わたしには分からないよ」
「やっぱり分からないか。ま、自分のことだし、他人に訊かないで自分自身で詮索してみるか……。じゃあな、お休み名雪」
「うん、お休み祐一」
名雪に寝る前の挨拶を済まし、俺はこれからの自分の部屋となる2階の一室へと向かい階段を昇って行った。
「でも……わたしはあの時祐一にすっごく哀しいことがあったのは知ってるよ……。祐一は覚えていないんだね……。それだけ哀しいことだったんだね……」
|
(ゆういちさん……ゆういちさん……)
(ん……)
深い眠りに就いていると、突然頭の中に声が響いてきた。
(ゆういちさん……ようやく帰って来ましたね……)
(えっ……!? 貴方は誰なんです? どうして俺のことを知っているんですか……)
頭の中に響いてくる声は、母親のように優しく、でも何処か寂しげな声だった。
(娘が……私の娘が貴方の帰りを7年間ずっと待っていましたよ……)
(娘……? 7年間……? 待っていた……!?)
頭の整理が付かない。この女性は一体何を言っているのだろう……?
(忘れてしまったのですね……私の娘のことを……。無理もないわね……あの悲劇は貴方には心が張り裂けるくらい堪え難い悲劇だったのですもの……)
(知っているのですか、貴方は……。俺の忘れた記憶を……)
(この街で過ごし、この街を歩けばきっと思い出しますわ……。娘のことを頼みます……)
(……)
娘のことを頼みます……。その言葉を最後に母親らしき女性の声は響かなくなった。
その言葉は一体何を表しているのだろう? その答えが見出せぬまま、俺は再び深い眠りへと入っていった……。
…第壱話完
|
※後書き
『みちのくKanon傳』の連載開始から3年と数ヶ月、改訂版書くのを止めて早2年……、今更ながら改訂作業を始めました。
改訂版の構想自体は一年以上前から行っていたのですが、他の連載物の更新に忙しくて手付かずの状態でした。それで今度は他の連載物を更新するモチベーションが低下したので(苦笑)、創作するモチベーションを高める為にも、自分のSSの原点とも言える『みちのくKanon傳』を改訂する決意を固めました。
また、他には「KanonSS-Links
」を覗いていますと、時折「Kanon傳」の話題が挙がることが上げられます。連載開始から3年、終了して2年以上経っても話題にあがり、結構読んで下さった方がいたのだなと嬉しく思う次第です。そんな読者さんを持てたことを嬉しく思いつつ、感謝の意味も込めて改訂版を再び書いてみたいと思うようになりました。
さて、改訂版を書くに当たって大きな変更があります。それは祐一の自称が「私」から原作の「俺」に変わったことです。今まで個人的な趣味で「私」と言わせていたのですが、この辺りに違和感を覚える人は多いと思うので、原作の設定にした次第です。また、他の原作と自称が違うキャラは原作寄りにしようと思います。
あとは、声優ネタが消えたことですかね(笑)。ただ、これは祐一にやらせなくなっただけで、このネタはあるキャラクターに継承されます(笑)。
前置きはこの位にしておきまして、本編の話を。壱話の冒頭で祐一が母親と靖國神社に行っているのには、ちゃんと訳があります。それは草加さんが口にした「嘗てこの地で巻き起こった悲劇」、「源氏の血統に託された遥か遠き日の約束」に関係しております。それは一体なんだと当然思われるでしょうが、この辺りは『日月あい物語』でいずれ書く予定です。ようは神奈や柳也に関わる何らかの事件ということです。
では、この改訂作業も途中で終わるかもしれませんが、少なくとも拾話くらいまでは改訂できるよう頑張ります。
|
第弐話へ
戻る